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久子ばあばと考える  ~戦争と平和~ 参加レポート

(1)開催日時: 2022年 8月6日(土)16:00〜17:30 

(2)主催:JAPAN IPC さま 

(3)費用等:無料。オンラインzoomにて開催。 

(4)参加者:未来Miku


8/6に行われたオンラインイベントに参加しました。

1945年8月6日は 広島に原爆が投下された日になります。その当時、東京の目黒に住まわれ、13歳であった「久子ばあば」 さんに戦争での体験を伺い、戦争と平和について参加者で考えてみました。こちらのHPの記事は「久子ばあば」さんに教えていただいた内容のまとめと感想になります。

なお、noteの方にSDGsの目標16「平和と公正をすべての人に」について改めて考え、関連記事をアップしています。


★主催

IPCはアジアを中心とした国際社会で活躍する人材の育成をテーマに設立され、「本物の平和」と「本物の人材育成」とは、について考えている団体です。


★講師

久子ばあば さん

1931年生まれ。現在91歳。日々の出来事や戦争体験等をブログで情報発信中

「ひさこばあばのむかしむかし」というYouTubeチャンネル公開



★戦中・戦後の暮らしと食料事情

【戦中・戦後の暮らし】

今でいう町内会はその当時の隣り組の集まりでした。各組は組長がまとめ役となっており、輪番制で担当していました。組長の役割は家ごとの人数把握をし、配給や回覧板の手配などでした。なお、町内会の役員は退役軍人などでした。


【戦中・戦後の食料事情】

戦争当時は13歳で育ち盛りということもあり、いつもお腹が空いていたと仰っていました。そのような状況において、特に印象深かったことは「鰯の配給」だったそうです。たんぱく質をとることが出来る食料が不足していたので、とても有難い配給だったと仰っていました。当時は今よりもはるかに鰯の漁獲量が多かったので、1人に5匹から6匹が配給されたとのことです。鰯を保管する倉庫や氷が少なかったため、大漁の鰯をすぐに売らなければ腐ってしまうという事情がありました。漁港からまっすぐに鰯が運ばれて来ると、住まいである東京の目黒は夜の21時頃が到着時間になります。当時は早寝だったため、人々は既に就寝中でしたが、組長から「魚の配給」という合図があると、飛び起きて鰯をもらいに行ったそうです。家に冷蔵庫はなかった為、まずは1匹を生の状態ですぐに食べます。その後は七輪で火をおこし、残りの鰯を焼いて、翌日の食事にしたそうです。骨・頭は再度焼いて乾燥します。その後、粉末にしてふりかけにし、鰯のすべてを捨てることなく食べていたということです。


米を作りたくても男性は戦争に動員され、耕すための馬も戦争で使う状況に変化していきました。残された人々では農業が出来ず、田んぼや畑は荒れ放題になってしまいました。結果として米が作れなくなり、大豆油を絞った搾りかすが米の替わりに配られました。カチカチに乾いた大豆の搾りかすはなかなか煮えなくて困ったそうです。また、現在は技術が進歩し「小麦ブラン」として、栄養食品で注目されるようになっている小麦の皮「ふすま」

も米の替わりとして配給されたそうです。

野菜の配給も非常に少なく、大根1本を隣り組で分けますが、取り合いになり、分けるのがとても大変だったと仰っていました。

そのような状況もあり、作物を自分で育てることを考えたそうです。狭い庭にさつまいも2本とじゃがいも2個ほどを植え、かぼちゃは竹ざおを立て、屋根に引っ張るようにして育てたそうです。屋根の上でかぼちゃの花が咲くと、人工的に受粉もおこないました。当時のかぼちゃは味は今よりも劣りますが、大きく育つ品種だったので、食料としてはとても助かったそうです。

なお、かぼちゃの茎やつるについては、まったく味がなく美味しいとは言えませんでしたが、それでも捨てずに食べていたということです。ちなみに、さつまいもの茎はきんぴらにし、とても美味しかったそうです。


戦争中から戦後まで食糧難は続いたそうです。お金があれば闇市で食料は買えましたが、公定価格よりも高く、闇市ではサンマは1匹10円もしたそうです。闇市で食料を買うお金がなかったので、叔母の知り合いの農家を訪ね、さつまいもを買って帰ったと仰っていました。その当時は着物を持っていかないと米を売ってもらえないのが一般的だったと教えていただき、米の貴重さを知り、驚きました。



★戦争時の空襲・避難等について

【B29から投下された焼夷弾に関する事実】

効率的に日本の家屋に被害が出るように、その効果が実証済みの焼夷弾が武器として選ばれたのだということを知りました。形が六角柱で設計されたのには意味があったことを教えてくださいました。六角柱の焼夷弾を19本まとめると円になります。2段に重ねると38本となるため、1回の爆弾投下時に焼夷弾を空中で38本に散らす事が出来ると考えて設計がされたのでした。空から火の雨が降ったような感じとなり、家の屋根を突き破った後、爆弾に含まれている油によって火を噴くようなしくみとなっていました。日本では焼夷弾の情報が詳しく知られていなかったため、市民は江戸火消しの道具(水で消せる程度の火災対策)しか備えておらず、被害が大きくなってしまいました。


【空襲・防空壕の体験】

その当時は防空壕(ぼうくうごう、英語: air raid shelter)を作っておき、空襲の際はそこにこもるというのが避難方法でした。しかしながら、防空壕にこもった状態では逃げられないため、結果として、久子ばあばさんは穴の中で蒸し焼けの状態で死んでしまうことを周りの様子を見て理解したそうです。その後は、降ってきた焼夷弾からの避難方法は「逃げる」のみであると身をもって体験したと仰っていました。

なお、本来、力仕事が出来るほどの体力もないはずである当時13歳だった久子ばあばさんが1人で防空壕を作りましたが、それが可能だった理由は当時の厳しい背景が関係していたことを知りました。出征出来ない女性や子供は休みなく工場で働いたり、防空壕を掘るなどの力仕事も自分たちで乗り切るしかありませんでした。そのような事情もあるため、町内の薬局では現在販売されていないような違法薬物が合法で販売されていました。何も知らずにその薬を飲んだ久子ばあばさんは、眠くならず力も出るので、2人程がしゃがむ事の出来る大きさの防空壕を1日でつくりあげることが出来たそうです。ただし、その薬の効果が切れた後の反動が辛かったので、1度しかその薬は使わなかったと仰っていました。

なお、戦後その薬の影響で健康を害した人達もいたそうです。


★感想

戦争について学ぶ機会は学校でも何度かありました。しかしながら、視点が違うこともあり、今回は授業で習わなかった内容も多々ありました。食糧難の中、生き抜いた知恵や防空壕の避難体験は本当に貴重なお話でした。今回、久子ばあばさんのイベントにおいては、会場での開催はお体への負担も大きかったと思うので、オンラインイベントで実現して本当に良かったです。またこのようなイベントがあったら参加したいと思いました。



なお、noteの方にSDGsの目標16「平和と公正をすべての人に」について改めて考え、関連記事をアップしています。



★Article by:未来miku



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